作・演出:櫛引ちか
占い師が天才少女の協力を得て、クライアントそっくりのアンドロイドを作り、自分がいかに偽っているかを気づかせ、怪しげな自己啓発セミナーさながら本物の自分へと導くように見える物語。
本作の初演は2022年12月、北海学園大学演劇研究会の定期公演で行われた。今回も出演者が大きく変わることはなかったが、櫛引ちか・秋葉ちよの演劇企画団体「瓶詰企画」作品として上演された。
つまらないから人間の写真は撮らないと後に占い師となる自称偽物の男は言う。建物などの風景を撮っているようだ。「人間の外側に出るものは偽物」だからつまらないらしい。人間の嘘や悪意に敏感なのだろう。というか偽物男はカメラに被写体の本音や嘘を映す機能を与える力があるようだ(明言はされていないから解釈違いの可能性あり)。そのカメラを使えばアイドルの整形やら年齢詐称もわかってしまう。それは偽物男にとっては「つまらない」ことだったが、アンドロイドに搭載したカメラでクライアントの人間関係を記録し、いかに世の中に嘘があふれているかをクライアントに気づかせるのだった。
偽物男が人間を撮るのはつまらないと聞いて、ボクは「なるほど」と思った。言い方を変えれば世界を良きものと観ているのだ。
「神はすべてのものを見、それらをよしとし給えり」とチェスタトンは『聖トマス・アクィナス』で創世記を引用する。そして「本来悪いものは存在しない」「あるのは悪い考えのみ、特に悪い意図のみ」で世界や肉体は悪い意図によってねじまげられるとするが「悪魔は物を悪くすることはできない。物は創造の第一日のまま」とカトリックの教義について述べる。
カトリックは肉体を良きものとする。「感覚は霊魂の窓」「理性が感覚によって養われる」のである。魂と肉体が結びついてこそ人間であって、魂だけでも肉体だけでも人間とは言えない。「屍体は人間ではない。だが亡霊もまた人間ではない」のだ。これはアリストテレスからトマス・アクィナスへの流れといえる。これと別の流れがプラトン、アウグスティヌス、デカルトの流れ。魂と肉体を分けてとらえ、チェスタトン曰く「プラトンには、人間は肉体を持っていないほうがよい」なんて考えがあるらしい。たしかにデカルトも『方法序説』で「感覚がわれわれをときには欺く」とし「感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない」なんて想定しようとする。
だからクライアントそっくりのアンドロイドに本人と思って接する人物達をみて、感覚・視覚に頼るが故に本人と信じて疑わない様は、感覚を否定するプラトン、デカルトの肯定と思えた。また思いを寄せる教師に似せたアンドロイドに興奮して鼻血を出す天才少女が、本物の教師からは暴力を振るわれ鼻血を出す。いじめを受け相談しようとしたら「聞いちゃったら対処しなきゃいけないじゃないか」と相談を受ける前に暴力で口を封じたのだ。アンドロイドは悪い物ではなく、優しさを感じさせるが人間ではない物。教師とアンドロイドの対比から「悪いものは存在しない、あるのは悪い考えのみ」のアリストテレス、トマス・アクィナス的な考えを連想させる。本物の教師は優しい人ではなかった。「物」であり「偽物」ではあるが、アンドロイドの優しい彼だけがいれば幸せと言う天才少女の姿はとても痛々しかった。
アリストテレス的視点とプラトン的視点が絡み合い、観客を揺さぶりながら登場人物たちは「幸せ」になっていく。最後のクライアントは偽物の自分に気づき「本物」になるのだが他の人と同じく、どう見ても「幸せ」には見えない。占い師(自称偽物の男)から「あなたは、あなたのために、あなたの心に正直に生きていけばいい」と本物の世界を作るため力を貸してほしいと言われる。そして観客に向かって「お前も、お前も、みんな偽物なんだ!」と叫ぶのだが、その目つきは異常者のそれである。
美学者の今道友信は『美について』で才能や富を備えた人がいても「もしその人が真、善、美の追求を捨て去るならば、その時点から獣に堕ちてしまう」と言い、アリストテレスは『政治学』で「人間は完成された時には、動物のうちで最も善いものであるが、しかし法や裁判から孤立させられた時には、同じくまた凡てのもののうちで最も悪いもの」「人間はもし徳を欠いていれば、最も不虔で最も野蛮」と人間を観察する。古代ギリシアでは徳論無しの幸福はありえない。田中美知太郎によれば、幸福とは徳を身につけ「よりよく生きる」と同義である。徳とは人間が人間であるためのものである。
アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』では「彼の望みはそう見えることではなく、まことの勇者たるにある」とある。智勇兼備の武将、予言者アムピアラオスについて書かれた部分だが、もしクライアントの彼が良い人と思われることよりも良い人となる努力をしていたなら獣に堕ちることはなかっただろう。古代ギリシアからローマ、そしてキリスト教と西洋の徳の伝統の流れからみて、徳論無しの自己の解放は悲劇を招くとでも言えるまとめ方は良く思えた。
ただ革命家としては占い師の活動は効率が悪い。あれでは多くの人を「幸せ」に導くには途方もない時間を要する。しかし冒頭に出てきた占い師は観客に向かって、初めましてじゃない人もいるかもしれないけど自分は偽物だからと「初めまして」という。意味が分からなかったが、もし占い師のアンドロイドがいるとしたら、それが1体ではなく2体3体と量産されていたら・・・とボクは想像してちょっと怖くなった。そして占い師に悪意は感じられないが、その教祖的な姿に『聖トマス・アクィナス』にあった「悪魔は神の模倣者」という諺を思い浮かべたのだった。
2025年7月31日(木)19:00
PLANT HALLにて観劇
text by S・T